函館ライオンズクラブの歴史
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40周年

45周年

チャーター

チャーターメンバーとしての想い
私も、もうあと1ヶ月で齢78歳を迎える。
永い人生とは未だ言えないが、ライオンズ人生43年を経た。
あと7年をL.Cと共に闘ってゆけば、
私の人生の大半はL.Cと共にあったこととなるであろう。
半世紀(50年)は長いようで短かった。
まだまだやりたいことは山程ある。

言うなれば、私の社会的人生は函館北斗L.Cと共に生まれ、
函館北斗L.Cと共に育ってきたと言っても過言ではないと思う。

私自身は半世紀の間にほこりにまみれ、
肉体は老化の一途をたどっているようだが、
私の気持ちはまだまだ闘いに燃えている。
一方、北斗L.Cは他のL.Cに対し誇れるほど立派育った。
会員数は一時隆盛の時より半数程に減ったが、
メンバー皆元気で、明るく、団結力の強い組織となった。
私はチャーターメンバーとしてL.Cに現存していることを誇りに思っている。

有り難うメンバーの皆さん。

L後藤
L.後藤次夫

さて、我が函館北斗L.Cは今から43年前の1961年12月6日、函館L.Cのスポンサーにより、
40名の創立会員をもって五島軒本店にて発会式が行われた。
チャーターメンバー40人は皆、初めてのL.Cメンバーであり、他のL.Cからの移籍会員は一人もなく、
創立の手続き・運営に関しては非常に苦労した。

 当初の一年間は毎晩の様に、当時の函館駅前の宮城屋ホテル(現ハーバービューホテル地)に集まり、L.C国際協会会則規則集を学習したものだった。英語のまじったL.C用語には苦労した。
コンサイス大英和辞典を持ってきて、開いてみても、何としてもL.C用語独特の和訳が出来ない。

ある例会で今は亡き沢田L.(外科医)などは「俺は初代のテールツイスターだが
何をやるのかサッパリ判らない。辞書を引いたら「テール」とは尻尾のこと。
「ツイスター」とは腰をひね廻したりする運動のこととあった。
「俺の役目はシッポが無いから腰を振り回してメンバーから金を引き出すことだな。」と笑って
腰を振りながらファイン・ドネーションを集めたものだ。

またある例会では、今は亡き津村L.(津村造船社長)は、「俺は毛唐のクラブを作るつもりはない。
日本のクラブなのだから用語はすべて日本語で言え。」と発言し、
それに対し他のメンバーらは、「賛成だ。日本独自の会則を作るべきだ。その基本は教育勅語である。」と
危ない発言が飛び出したり、ケンケンガクガクの例会だった。

それでも相対立することなく、最後には盃を片手に、肩を組みながら、ウイ・サーブをした思い出が目に浮かぶ。この様な例会における自由な意見の交換の様子を見て、
他のL.Cのメンバー(函館L.C・函館東L.C)などは、「これはすごいクラブが出来た。
まさに「荒野の素浪人」(当時評判になった映画の題名)の集まりだ。」と言われたものだった。

この様な若さと勢いと行動力にあふれた我がクラブはアクト(行動)においても
函館市民をアッと言わせるような事ばかりやった。

発足翌年の函館港祭りの時期(1962年7月2日)に第一回チャーターナイトを行ったが、
式典は大沼でやり、パレードは共愛会館(現函館中央郵便局)前から旧丸井デパート(現十字街)まで、
函館公園から借りてきたライオンの子供を檻に入れて台車に乗せ、
ボーイスカウトと一緒にそれを引いて歩いたユニークなデモ行進だった。

棒二デパートの屋上には、巨大な「函館北斗L.Cチャーターナイト」のアドバルーンを揚げ、
プラカードを持ったボーイスカウトを先頭に、L.独特の帽子をかぶり、片手にライオンの檻を引く綱を、
多くの市民の励ましを受け、恥ずかしそうに歩く姿は、まさに翌日の新聞を賑わす
一幅の和やかな絵のようだった。

そして我々はチャーターナイト記念事業として「世界交通標識展示会」を開催した。
警視庁よりの資料をもとに道警外5団体の共催で、世界27カ国及び日本交通標識、事故統計表、
白バイなど17点を展示し、見学児童にものさし、下敷き、風船などをあげ、1週間の入場者数1万人を
記録した。

それから以後は破竹の勢いで数々のアクトを新しいアイディアのもと実施してきた。

当時、日本は3年後の東京オリンピックを控え、経済・文化共に世界に向けてアピールしようと、
行け行けどんどんの勢いがあった。
しかし反面未だ戦後の傷跡深く、白衣を着た傷痍軍人の物乞い姿や、公
共の収容施設(共同宿泊所・民生寮・児童収容施設等)に収容されねばならぬ貧困な市民が多く、
矛盾に充ちた社会だった。この様な状況の中では我々L.Cのボランティア活動は非常に意義があった。

我々の日常生活の生き甲斐にもなっていたと思う。
1.貧しい人々に対するボランティア活動(施設の訪問、協力、援助等)、
2.教育的観点からの児童援助、少年スポーツの育成、
3.無医村地区に対する医療活動、
4.地域の文化活動などを40年間数多く実施してきた。
そして、これらの行動を共にする中から私は多くの友人・同志を得た。私の人生の財産でもある。

しかし、振り返って今の世界・日本の現実を見たらどうだろう。世界中いたるところで戦争は絶えない。
何が原因であろうと人間の生存を否定する戦争は最悪の行為だ。確かに日本は豊かになった。

終戦時の食べ物も何もない焼け野原から59年間の血のにじむような努力によって、
世界で2番目の経済大国と言われるようになった。
街には車があふれ、世界中の物・文化があふれ混在している。金さえあれば欲しい物は何でも手に入る。
しかし果たしてこれが幸せな社会なのか疑わざるを得ない。

毎日のように新聞紙上を賑わしている友人・夫婦はもちろんのこと親子・兄弟に至るまで残虐な殺し合い、
騙し合いは、之が人間のすることなのかと目を覆いたくなる。恐ろしさと、怒りで胸を締めつけられ、

そして人間不信が増大してくる。まさに世紀末の様相だ。
そこには我々L.Cが常にうたっている「自由と平和を愛し、共に助け合い、共に生きてゆく」

精神はみじんも見られない。こんな社会の中でL.Cの存在価値は何だったんだろう。
我々の長期にわたるアクト(行為)は何の役にも立たなかったのだろうか?悩まざるを得ない。

あるメンバーはいう。「そんなにむずかしく考える必要はない。
とにかく我々は地域住民の求めている
やればいいのだ」と。しかし、本当にそれでよいのだろうか。
我々の力で出来ること出来ないことがある。

そして、又空手形で期待を裏切ることになってはいけない。
又、地域の人々の要望が必ずしも良き社会を
創ろうとする方向を目指しているとは限らない。
このような何が善で何が悪なのか判らんような
混乱・変化の激しい社会の中では、
”良き社会”を創るためには、その本質をしっかりととらえる必要がある。

しかし、その”良き社会”の本質とはむずかしい。
昔、少しかじった哲学上の相対立する用語を
使わして頂ければ、その本質は「ロゴス(理性)?」なのか、
パトス(情念)?なのか?」「物質なのか、精神なのか?」
或いはそれらをアウフヘーベン(止揚)したものなのか?私には解らない。

しかし、互いに解らない同士が、この問題について話し合って行くうちに、おぼろげながらその答えは
解ってくるのではないだろうか。ぜひ話し合ってみたい。

なんだか長々と小理屈を延べさしてもらい本当に申し訳ないが、最後にこれだけは言っておきたい。
今、世界も日本も重大な混乱の岐路に立っている。
こんな時こそ、我がL.Cの社会的存在意義が益々重要になってくるはずだ。
我々L.に与えられた使命も又大きい。

地域の人々、日本の人々、世界の人々と一緒になって汗を流そうではありませんか。

                                                                   2004.11.14